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もう23回忌・・・

 投稿者:ウラシマ  投稿日:2009年 7月 4日(土)20時10分0秒
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  今朝の新聞のラテを見ると、特番で石原裕次郎の23回忌の企画が組まれていた。
あれから、もう20年以上が過ぎたんですね・・・

90年の年末に、裕次郎さんが亡くなられてから初めての石原プロダクションの忘年会が、山梨県の石和グランドホテルで行われたのを思い出した。
当時、今の会社で石原プロの窓口業務を担当していて、その関係でこの忘年会に招待されて参加した。
頂いた招待状は、和紙に墨書で、亡くなった石原裕次郎さんが、あの世から現世の関係者に自分の4回忌の忘年会に参加するように呼びかけた手紙になっていた。

会場のホテルに着くと、正面玄関の両脇からホテル前面全体をふさぐように撮影用のパトカーが2階建てのトレーラーに積み込まれていて、まず度肝を抜かれた。
そして、入口の脇は昭和30年代の映画館の窓口の書割になっていて、その当時の入場料金が書かれていた。
その入口を入ると、廊下の両脇には石原裕次郎の日活時代からの映画ポスターがずらりと掲示してあった。
そのポスターの前で、宴会もだいぶ進んでほろ酔いした頃、デビューしたての新人女優と一緒のツーショットを先輩に撮って貰ったりした。

フロントに出ると、赤い新車のオープンカーが展示されていて、それは忘年会の景品だった! スポンサーの三菱自動車が提供したものだった。
フロントの受付で、法被(はっぴ)と手ぬぐいを受け取った。この法被は浅草の専門店で作らせたもので生地も縫いもしっかりしていて、裕次郎さんの出身校の慶應カラーの紺と赤の大きな縞模様に「石原組」と襟に白抜きされていた。
法被は忘年会の後は各自が持ち帰り、次の忘年会にまた各自が持参し、参加するたびに忘年会の開催された各地名が法被の下の方に大きく刻印されるようになっていた。

この法被を参加者約450人全員が着て勢ぞろいした宴会場は壮観だった。
映画会社、テレビ局、広告代理店、テレビ・リポーターなどなど・・・ワイドショーなどのテレビ・カメラも10台以上並んでいた。
司会はフジテレビの露木アナウンサーで、室内なのに、天井を焦がすように花火が上がった。
司会の横の大画面に、同じ法被を着た故・石原裕次郎さんが写り挨拶した。(もちろん、過去のお元気な頃の忘年会の挨拶のビデオだった。)
われわれは前の方の席で、田中美奈子や川野太郎がお酌をしてくれた。
ステージでは、最新のテレビや多くの景品がうず高く積まれていて、その前で峰竜太の進行でいろいろなゲームがあり、ラストは例のオープンカーを特賞とする抽選会で、これは編集の女性が当てた。
宴会はお開きになったが、舘ひろしが結構酔っ払っていて、神田正輝を引き連れて、ギターをかかえて再びステージに上がり、何曲か歌い続けた。舘ひろしの目はウツロでロレツが廻っていなかった。

自分の部屋(4人用)に戻ると、テーブルの上には、缶ビールやチューハイや日本酒がピラミッドのように整然とうず高く積まれていた。スポンサーの酒造会社からの提供だった。この会社からは、お土産にバーボン・ウィスキーの「ブラントン」がゲストの450人に配られた。これに「日頃の多大なご協力に皆様と家族の方に感謝します。石原プロ」みたいなことが砂糖文字で書かれたカステラも付いていた。

この忘年会の模様は、「日本人が最も愛した男」と題して、NHK-BSで年末の特番として同時中継されていた。
前の方の席だったこともあって自分も少しだけ映っていた。この忘年会を家族は見ていたのだ。

この初めて参加した大がかりな石原プロの忘年会にはビックリしたものだったが、石原プロの大番頭であるコマサこと小林専務は、この忘年会に会社としては一銭も出さずに取り仕切ったらしいことを後から聞いて、二度ビックリしたものだった。
 
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