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> No.2704[元記事へ]
GATAさんへのお返事です。
GATAさんからのメッセージでは、自然(花)を記録(カメラ・撮影)して再生(写真)の関連性についてなのですが、それは自然(音楽→音波)を記録(レコーダー・録音)して再生(スピーカー)と同様だということになるんですかね?
そうではないにしても、それで思い出したのが、チェリビダッケという指揮者で、このマエストロは生前にレコード(CD)は出さなかった、というよりも、自分の音楽を記録した複製(レコード・CD)を販売することを拒否し続けたんですね。
この巨匠の持論では、コンサートホール(あるいはスタジオ)での演奏は一回性のもので、しかも、記録した複製から再生した音楽は、生の演奏とは全然別物だから…
それでは自分の音楽は正確には伝わらないという不信と絶望からの拒否なのだろう…
チェリビダッケは、ことのほか音の響き、残響を大切にしたから、会場の音響設計や温度・湿度によって、この巨匠は、毎日その都度演奏の音量や速度を変えていた。困惑した演奏者は毎晩のように四苦八苦したことだろう。
また別の理由で、晩年になるほど段々と演奏の速度は遅くなる傾向にあったが、ついには伝説になるほど遅くなっていった!
それはともかく、残響を記録した複製を再生して、それがまた録音会場と違う環境で残響していく…
それを聴く環境の違いで、音の響きや残響は千差万別なわけで、それが再生音楽の現実と限界なのは、百も承知で試行錯誤しながら再生して楽しんでいるわけで…
コンサートのチケットの半券は、いつもCDジャケットの中に証拠?として入れておくのが習慣になっているけど、CDは生の演奏の思い出のカケラなのかもしれないね。
リビングのメイン・システムは、フロア・スタンディング・タイプの大型スピーカーで22時までと自己規制していて、寝室のサブシステムはブックシェルフ・タイプのスピーカーで24時まで、それ以降は、ベッドのヘッドにポータブルのCDプレーヤーやMDプレーヤーにつないでいる超小型スピーカーの出番で、これはベッドに入ってから、読書しながら、つけっぱなしにして、静かで穏やかなCDアルバム1枚が終わらないうちに大体眠ってしまいます。
公園や庭園で花の美しさを愛でて楽しむように、音楽ではコンサート・ホールに響く実際の演奏を聴きに足を運ぶことが本当は大切なんだけどね。
しかし、複製の有り難い点は、こちらの気分に応じて、自分の好きな曲を、好きな演奏者で、好きな時間に、好きな場所で、好きな音量で、好きなだけ飽きるまで繰り返し聴けることなのは言うまでもないよね。
写真という複製も同様に、自分が見たいと思った時に、季節外れの花を見ることができるし、日本にはない世界中の花も見ることができるし、絶滅した花も見ることができるし…
このように、複製は一回性ではないから、時間と空間を超えて、数十年前の故人の演奏や遠くウィーンの会場の大きさにも関係なく、大勢の人たちが楽しむことのできるウラシマの玉手箱のようなものでもあるよね。
複製は確かに現実のオリジナルとは全然別物ではあるけれど、それはモノラルのAMラジオから聴こえてくる音楽と、ハイエンドのオーディオ・システムから流れる音楽も同じように、この複製と現実の二つの間の溝に落ちて欠落したものを想像力で補って、これを大いに楽しまない手はない!…というのが私のストレートな結論です。
蛇足だけど、楽しめるものは、すべて楽しめばいいのだから、オーディオと同様に写真という複製に伴う例えばレンズと被写体の花について、あれこれ言っても、それはまた別の趣味の領域なのだから、主客転倒でも情けないわけでもなく、ましてや味気ないなんてこともなくて、それは楽しいことじゃないのかな?
自分の好きなことに、必要以上にこだわって遊ぶのが趣味の領域だとすれば、その同じ領域が好きでなくては普通は共感できなくても当然なんだよね…
ある意味で歪んで肥大した普通じゃない過剰な領域ですからね。(笑)
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